原発事故などの放射線災害が発生した場合、原子力発電所の周辺の病院は緊急避難を強いられることがあります。入院患者の避難には大きな困難を伴います。2011年3月11日に発生した東日本大震災では、津波により福島第一原子力発電所(以下、福島第一原発)で事故が発生しました。同日、福島第一原発の半径3 km圏内の住民に避難指示が出されました。その後翌日には、避難指示は福島第一原発から半径20 km圏内まで拡大されました。今回は、福島第一原発事故により緊急避難を余儀なくされた病院について、災害時の状況と教訓をお伝えします。
避難指示区域の病院の緊急避難は、入院患者にとって大きな負担だった(双葉厚生病院)
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、津波により福島第一原発で事故が発生しました。同日、福島第一原発の半径3 km以内の住民に避難指示が出されました。その後、避難指示は福島第一原発から半径20 kmまで拡大されました。避難を余儀なくされた住民の中には、老人ホームの高齢者、障がい者、入院患者など、健康状態が悪化している災害弱者が含まれていました。福島第一原発から20-30 km圏内の地域については、急な避難が要因と考えられる、介護施設の高齢者の死亡率の上昇が報告されています。避難区域内の医療機関では、自衛隊などによる支援のもと、緊急避難が行われました。しかし、避難区域内の入院患者がどのように避難したのか、また、避難中にどのような困難に直面したのかについては、学術的な報告が少ない状況です。そのため、緊急避難のリスクを最小化する対策を提案することを目的とし、震災当時、福島第一原発から半径5 km以内に位置していた双葉厚生病院で行われた緊急避難のプロセスを調査しました。
福島第一原発の半径20 km圏内には7つの病院があり、7つの病院全ての患者が避難を余儀なくされました。そのうちのひとつ、福島県双葉郡双葉町にある双葉厚生病院は、福島第一原発の北西3.9 kmに位置しています。2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生しました。双葉厚生病院がある双葉町では震度6強を記録しました。その後、沿岸地域が津波に襲われましたが、双葉厚生病院は地震や津波による被害を受けませんでした。病院の電源は途絶えず、ガスと水の供給は緊急措置を講じたのちに回復しました。地震当日、病院は地震と津波により負傷した56人の救急患者を受け入れました。地震当日の午後9時23分、日本政府は福島第一原発から半径3 km圏内の地域に避難指示を発令しました。その後、3月12日午前5時44分、政府の指示により福島第一原発から半径10 km圏内が避難区域に指定されました。双葉厚生病院には3月12日の午前6時40分ごろに自衛隊とともに警察官が訪問し、院長に避難を要請しました。この指示を受け、双葉厚生病院では院長の指揮のもと、緊急病院避難が開始されました。当時、病院には136人の入院患者と150人の病院スタッフがいました。
2011年3月12日午前8時30分頃、自力で移動できる患者の避難が開始され、6名の患者が自主退院しました。歩行可能な患者53名と病院スタッフ90名がバスで避難し、さらに35名の患者が自衛隊のトラックで避難しました。地震直後に帝王切開で出産した女性は、新生児とともに福島市の福島県立医科大学病院に救急車で搬送されました。避難当初は福島第一原発の状況に関する十分な情報がなかったため、院長は重症患者を避難させるべきかどうか判断に苦慮しました。しかし、同日の午後2時頃、院長は福島県災害対策本部に所属していた旧友から電話を受け、福島第一原発の状況が極めて深刻であると知らされました。そのため院長は、病院の建物内に残っていた全員、40人の患者と56人の病院スタッフを避難させることを決定しました。
当時、原発事故を想定した患者避難計画は存在しませんでしたが、病院スタッフは懸命に努力し、協力し合い、残っていた患者を避難させました。患者は自衛隊のヘリコプターやトラック、警察のパトカーなどで搬送されました。最初のヘリコプターには患者21人と病院スタッフ2人が搭乗し、二本松市に向かいました。2機目のヘリコプターには患者12人と病院スタッフ25人が搭乗しましたが、燃料不足と夜間視界不良のため、宮城県仙台市にある自衛隊基地内の飛行場に一旦着陸しました。残り7人の患者と9人の病院スタッフは12日中にはヘリコプターに乗ることができず、双葉高校に残されました。医療機器も十分ではない中、残された病院スタッフは夜通し患者のケアに全力を尽くしました。翌朝、双葉高校に残されていた患者と病院スタッフはようやく仙台の飛行場に搬送されました。その後、飛行場に残された人々は自衛隊のヘリで二本松市に向かいました。
緊急避難は混乱を極めていました。患者が別々に避難したため、一時的に一部の患者が行方不明になりましたが、3月16日には全患者の所在と状況が確認できました。福島県内の病院は、被災した多くの病院の患者を受け入れていたため、転院の手配は非常に困難でした。しかし、双葉厚生病院の医師の人脈を通じて、入院が必要な患者は数日のうちに他の病院に受け入れられました。
緊急避難が開始された12日、末期がん患者2人と重篤患者1人が亡くなりました。13日には重度の心不全患者1人が亡くなりました。彼らを含め、避難後1週間以内に死亡した患者は計5人でした。避難後1ヶ月以内に9人、3ヶ月以内に17人が死亡しました。
全ての患者の避難が、緊急避難の開始後24時間以内に完了しました。災害対策本部との連絡が困難であったにもかかわらず、病院は自衛隊と連携して搬送支援を行い、病院スタッフは患者に同行して避難することができました。しかし、患者4人が亡くなってしまったことは、入院患者が緊急避難中に肉体的にも精神的にも大きな負担を経験することを示唆しています。
双葉厚生病院の緊急避難の状況から明らかになった教訓として、原子力発電所に近い病院は、脆弱な患者の負担を最小限に抑えるため、避難に関する外部との連携など、より詳細な避難計画を策定する必要があります。
病院避難で患者の命を救うには十分な医療資源とその戦略的な配分、外部組織との連携、指揮管理が重要(双葉病院)
災害時には、病院が緊急避難を強いられる場合があります。入院患者などの脆弱な人々は、緊急避難が負担となり、大きな健康リスクに晒される可能性があります。2011年3月11日に発生した東日本大震災および福島第一原発事故では、事故直後に、政府から福島第一原発周辺の住民に避難指示が出されました。避難指示は最終的に福島第一原発から半径20 km圏内に及びました。避難指示下となった病院は緊急避難を余儀なくされました。避難を行った病院のひとつ、事故当時、福島第一原発の西4.6 kmの大熊町にあった双葉病院では、入院患者338人のうち、39人の患者が避難完了の前に亡くなりました。非常に困難な状況下で避難を行わざるを得なかった双葉病院の努力を尊重する一方で、今後起こりうる災害において災害弱者への健康影響を最小限に抑えるため、どのような困難があったのかを明らかにする必要があります。そのため、公開司法記録、書籍、ニュース記事、病院関係者の証言に基づき、双葉病院で行われた緊急避難のプロセスを後方視的に検討し、避難した患者の死亡について分析を行いました。
3月12日朝、福島第一原発から半径10 km圏内が避難区域に指定され、双葉病院が避難指示下となりました。双葉病院は度重なる救援要請を行いましたが、災害対策本部、地方自治体、自衛隊の間で適切な連絡がとれず、双葉病院の避難は遅れたと考えられています。大地震と津波の影響で、病院は電力と水道が途絶えていました。この時点で338人の患者が入院しており、そのうち約40 %が高齢者(65歳以上)でした。20人以上の患者が中心静脈栄養を必要とし、40人以上の患者が経腸栄養チューブを必要とし、10人未満の患者が酸素補給を必要としていました。人工呼吸器を必要とした患者はいませんでした。
まず、自力で歩行できる患者209人(グループ1)については、3月12日午後2時頃、地方自治体が手配した5台のバスで避難しました。病院スタッフはこの避難を一時的なものと考えており、速やかに病院に戻ってさらに避難を続ける予定だったため、病院スタッフのほとんどがバスに同乗しました。しかし、ほとんどの避難所は混雑しており、5時間半の移動の末、三春町の一時避難所しか見つかりませんでした。その後、このグループの患者は3月13日にいわき市に移送されました。このグループでは死亡者はいませんでした。
自力で移動できない患者のうち34人(グループ2)が、3月14日に自衛隊の支援のもと自衛隊車両(バスおよび救急車)で避難しました。自衛隊員は可能な限り多くの患者を車両に乗せましたが、病院に残った患者全員を避難させることはできませんでした。そのため、双葉病院の病院スタッフは残りの患者のケアのため病院に残り、車に同乗して患者のケアを行うことができませんでした。このグループの患者は10時間の移動の後、いわき市の体育館に搬送されました。3人の患者が途中で亡くなり、翌日にはさらに11人の患者が亡くなりました。
病院に残った自力で移動できない患者94人(グループ3)は、3月15日と16日に自衛隊の支援のもと避難しました。4人の患者が避難前に亡くなりました。避難施設への移動中に24人の患者が亡くなりました。このグループに病院スタッフは同行できませんでした。認知症の患者1人が避難中に行方不明になったことが報告されました。
避難の際に亡くなった患者の症例をいくつか報告します。
〈症例1:グループ2の患者の代表的な死亡例〉
重度の認知症を患い、寝たきりの97歳の男性が、経腸栄養を受けていました。褥瘡と尿路感染症を繰り返していましたが、容態は安定していました。3月12日午後の最初の避難後、病院スタッフの人手不足により、病院は十分な医療を提供できなくなりました。さらに、停電のために、病院スタッフは注射器を使用して手動で痰の吸引を行わざるを得ませんでした。患者は3月14日にグループ2の他の患者とともに避難しました。避難中は経腸栄養は中止され、点滴は行われませんでした。彼は南相馬市の相双保健センターで体表面の放射線汚染の検査を受け、その後10時間かけていわき市の向洋体育館に移送され、3月15日の朝に亡くなりました。死亡診断書には心停止が死因と記載されており、司法記録によると、水分補給の中断による脱水と避難の身体的負担が主な死因であった可能性がありました。
〈症例2:グループ3の患者の代表的な死亡例〉
統合失調症の73歳男性は精神運動興奮のため入院していました。言葉でコミュニケーションしたり自力で動いたりすることはできませんでしたが、介助があれば食事はでき、身体状態は安定していました。3月11日、インフラの被害のために、病院は暖房も食事の提供もできなくなりました。初期避難後の医療が不十分だったことに加え、インフラの供給不足により、患者は低体温症や脱水症を患っていた可能性があります。患者は3月16日午前12時35分に自衛隊の支援で避難しました。避難中は治療や点滴による水分補給は行われませんでした。患者は二本松市に搬送され、放射線汚染検査を受けた後、病院に搬送されました。同日午後4時10分、脱水症による死亡が確認されました。
双葉病院の避難において、点滴や痰吸引などの医療処置の中断は、患者の死亡につながった可能性があります。亡くなった患者のほとんどは寝たきりまたは障害のある重篤な患者でした。このような患者には継続して医療ケアを提供する必要がありますが、病院スタッフの不足とインフラの被害により、輸液療法や痰の吸引など必要な医療ケアが十分に提供できない状況でした。放射線災害時の病院避難では、限られた医療資源の割り当てが重要な課題になります。また、外部組織との連携や避難の指揮管理についても検討が必要です。理想的には、病院避難には十分な医療資源の備えと、効率的な避難プロセスをもって臨むべきです。
放射能汚染の状況によっては、インフラと人手の維持や、病院に残るスタッフに対する倫理的配慮が可能であれば、重篤患者を避難させないという選択肢もあり得ます。しかし、災害時には病院の避難が避けられない場合もあるため、避難によって起こりうる健康への影響を認識し、災害対策に反映させる必要があります。
福島第一原発から半径20 km圏内の病院避難についてインタビュー調査
2011年3月11日に発生した東日本大震災および福島第一原発事故では、福島第一原発周辺地域に政府から避難指示が出され、その範囲は原発から半径20 kmに及びました。この地域においては、入院患者や障がい者、高齢者などの災害弱者を含むすべての住民が避難を余儀なくされました。中長期的な避難の影響として、原発事故後の急な避難行動により、福島第一原発周辺20~30 km圏内の介護施設で高齢者の死亡率が上昇したことが報告されています。福島第一原発周辺20 km圏内の地域における避難はより緊急性が高く、厳しい状況で行われました。これまでの文献では、約2,200人の入院患者と介護施設入居者が緊急避難を余儀なくされ、そのうちすくなくとも50人以上の高齢者が緊急避難による身体的負担のために避難中に命を落としたことが報告されています。しかし、福島第一原発周辺の病院での緊急避難が入院患者の予後に及ぼした影響などについては情報が限られていました。そのため、今回は、福島第一原発から半径5 km以内にある3つの病院について、緊急避難の状況と患者の短期予後を評価および比較することを目的とし、調査を行いました。
3つの病院における緊急避難の情報を、文献などから収集しました。また、各病院のスタッフへインタビューを行い、インタビュー結果について分析しました。インタビューでは、合意を頂いた病院スタッフに次の質問に回答して頂きました。
・避難中の患者が直面した、医療に関する困難は何でしたか?
・患者だけでなく病院スタッフも直面した、医療以外の困難にはどのようなものがありましたか?
・これらの問題を解決するにはどのような方法とサポートが必要ですか?
インタビューの結果から、「災害に対する準備不足」、「患者避難の難しさ」、「資源不足」、「情報不足」の4つのテーマが浮き彫りとなりました。
テーマ1:「災害に対する準備不足」
インタビューを受けた病院スタッフは、病院が放射線災害に対して十分に備えていなかったことを指摘しました。病院避難を余儀なくされるような状況は起こりにくいと想定されており、形式上行われていた訓練には病院スタッフや患者は参加しておらず、地域社会との協力もなかったとのことでした。そのため、病院は実際の避難の際に、医療記録の取り扱いや受け入れ病院の選定など、様々な問題に直面しました。マニュアルがなかったことや、患者の搬送方法やカルテの取り扱いに混乱があったこと、避難先を知らされないまま移動は始まったことなどが回答されました。避難先との協力関係を事前に確立していれば、状況は違ったかもしれないとの回答がありました。
テーマ2:「患者避難の難しさ」
病院スタッフは、重症患者の避難において、移動手段の確保や避難前および避難中のケアの維持が困難で、患者の死亡に直結する可能性があるなど、様々な困難があったと指摘しました。観光バスの座席に重症患者を何時間も乗せて移動することは、それ自体がかなりのストレスで身体に負担がかかり、実際に移動中に数人の患者が亡くなったとのことでした。
軽症患者の避難については、自力で避難できる患者を判断することの難しさや、大勢の患者を移動させる方法など、重症患者の避難とは異なる種類の困難を伴うことがわかりました。避難に関わったスタッフや避難支援者は、混乱する災害急性期に交通手段を確保したり、必要な医療資材を選んだりするのは大変だったと話していました。
テーマ3:「資源不足」
避難開始前は、病院は人員と医療物資の不足に直面していました。電気が使えなかったため、痰の吸引の際に電動吸引器が動かず、注射器にチューブを取り付けて吸引を繰り返すしかなかったなどの体験が聞かれました。
避難中も、患者を搬送するための人員と物資が不足していました。ストレッチャーやその他の物資がなく、患者を移動させる人員も足りなかったため、患者を移動させるのは困難だったとのことです。また、病院ではインフラが損傷し、特に電気と水の供給が途絶えたことで、患者のケアを継続することが難しくなりました。暖房がなくとても寒かった、電気のない中でろうそくの明かりを頼りに重症患者のケアをしなければならなかった、酸素が不足した、といった困難が話されました。
テーマ4:「情報不足」
通信手段の遮断とインフラの混乱により、原発事故に関する情報が病院に伝わらず、病院避難を支援する外部組織との連携や内部の指揮命令系統に悪影響を及ぼしました。外部からの連絡はなく、原発が危機的状況にあるとは思えなかったので、うかつに動くよりは状況が収まるのを待った方が良いと思った、といった声が聞かれました。避難についての指示も2,3回変わったとのことでした。出発前に情報があれば色々準備できたこともあった、という指摘もありました。
3つの病院の避難の状況を比較すると、次のような特筆すべき違いがありました。
・双葉病院は民間病院であるのに対し、双葉厚生病院と大野病院は公立病院でした。
・双葉厚生病院と大野病院は病院機能の統合を予定していたため、原発事故前の入院患者数は限られていました。対照的に、双葉病院の入院患者の大半は精神科患者であり、寝たきりの患者が大きな割合を占めていました。また、病院スタッフは患者の人数に比べて比較的少ない人数でした。
・福島第一原発から半径10km圏内の住民に対する避難指示は、東日本大震災とそれに続く津波の翌日、2011年3月12日午前5時44分に出されました。双葉厚生病院では、福島災害対策本部の勧告を受けて3月12日午後から緊急病院避難が開始されましたが、残りの2病院は政府の避難指示直後の午前中に患者の避難を開始しました。
・双葉厚生病院は電気、ガス、水道などのインフラが途絶えていなかったのに対し、他の病院はインフラを完全に失っていました。インフラの状況の違いが避難の決定のタイミングの違いにつながった可能性があります。
・大野病院では全患者の避難が30分以内に完了しましたが、双葉病院と双葉厚生病院からの避難にはそれぞれ約83時間と24時間を要しました。双葉病院と双葉厚生病院では、避難中および避難直後にそれぞれ39人(11.5 %)と4人(2.9 %)が亡くなりました。大野病院では緊急避難に直接起因する死亡は記録されていません。
・双葉厚生病院の避難関連の死亡に関する公開記録によると、避難した入院患者の死亡率は避難後の長期的な追跡調査中に増加し、原発事故後3ヶ月で17人(12.5 %)が亡くなりました。
・3つの病院は全て福島第一原発から半径5 km以内に位置していました。しかし、放射線災害に関する専門知識が不足しており、放射線災害について適切な災害訓練を実施したことはほとんどありませんでした。
インタビュー結果の分析からは、福島第一原発付近の病院は放射線災害時に患者を避難させる準備が十分ではなかったこと、避難時に軽症患者と重症患者の特性を考慮することが緊急避難の大きな課題であったこと、避難中に患者の輸送手段や人的・物的資源、情報伝達が不十分になる可能性が高いことが明らかになりました。こうした困難が大きいほど入院患者の健康に悪影響を与える可能性が高く、資源を枯渇させないこと、枯渇しそうな場合は枯渇する前に外部から補給することの重要性が浮き彫りになりました。
3つの病院の避難の状況を比較した結果、避難にかかる時間の長期化、入院患者数が多いこと、重症の入院患者の割合が大きいことによって、入院患者の死亡リスクが上昇することがわかりました。インタビュー結果の分析から考えるに、重症患者のケアを維持できなかったこと、輸送手段を確保できなかったことが重症患者の死亡率に影響した可能性があります。
避難に起因する入院患者の死亡は、亡くなった時期によって、避難中および避難直後の超急性期と、避難後一定期間が経った亜急性期に分類できます。超急性期の死亡は避難による直接的な身体的・精神的ダメージに起因すると考えられますが、亜急性期の死亡については、環境の変化や入院患者のケアに関する不十分な引継ぎなどが関係している可能性があります。今後の放射線災害に対する病院の備えにおいては、これらの要因を考慮した避難計画を事前に準備しておくことに加え、外部機関の支援も必要になります。
まとめ
放射線災害に伴う病院の緊急避難には大きな困難を伴いました。当時の病院避難の状況から、入院患者が緊急避難中に身体的にも精神的にも大きな負担を経験することが示唆されました。寝たきりまたは障害のある重篤な患者に対しては、継続して医療ケアを提供する必要がありますが、病院スタッフの不足とインフラの被害により、必要な医療ケアの提供が難しい状況でした。放射線災害時の病院避難では、限られた医療資源の割り当てが重要な課題になります。また、外部組織との連携や避難の指揮管理についても普段から検討しなければなりません。また、避難時に軽症患者と重症患者の特性を考慮することが緊急避難の大きな課題であったこと、避難中に患者の輸送手段や人的・物的資源、情報伝達が不十分になる可能性が高いことが明らかになりました。資源を枯渇させないこと、枯渇しそうな場合は枯渇する前に外部から補給することの重要性が浮き彫りになりました。更に、避難にかかる時間の長期化、入院患者数が多いこと、重症の入院患者の割合が大きいことが、入院患者の死亡リスクを上昇させる要因であることもわかりました。避難中または避難後数日の急性期の死亡は、避難による直接的な身体的・精神的ダメージに起因すると考えられますが、避難から数ヶ月間の死亡については、環境の変化や入院患者のケアに関する不十分な引継ぎなどが関係している可能性があります。今後の放射線災害に対する病院の備えにおいては、これらの要因を考慮し、避難計画を事前に準備しておかなければなりません。
謝辞
震災当時、過酷な状況の中、被災地で奮闘された方々に深い尊敬と感謝の意を表すとともに、今回の研究にご協力いただいた方々に厚く御礼申し上げます。
作成者:松本智紘